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五山の送り火の由来は?京都五山の送り火の文字の意味は?

   

五山送り火由来夏の京都の風物詩といえば、五山の送り火ですよね。

お盆に帰ってきた先祖の霊を見送送るための送り火のひとつ言われていますが、その起源や由来はどういったものなのでしょうか。
五山の文字の意味も調べてみました。

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五山の送り火の由来は?

夏の風物詩として有名な大文字の送り火。
実は、その起源や由来は明らかになっていません。

と言うのも、日本の首都であった平安京では、行事や風物に関して、そのほとんどを公式な記録として残していますが、大文字の送り火については、そのような公式記録がないのです。そのため、「あくまでも民衆による自発的な行為だったので記録されなかったのでは」と言われています。
京都の送り火は、室町から江戸時代にかけて庶民に定着していったようですが、一番古い記録は、慶長8年(1603)公家舟橋秀賢の日記『慶長日件録』で、7月16日条に「鴨川に出て山々の送り火を見物した」と記されています。そこでも、起源については触れられておらず、その当時でも既にお盆の風物詩になっていたようです。
送り火の起源は、江戸時代初期から研究されはじめており、その中で有力な説が「弘法大師説」と「足利義政」説の二つだそうです。

起源① 「弘法大師説」
「平安時代初期の弘仁年間(810~824)に弘法大師が始めた」という説。

理由は、
・大文字の送り火をおこなっている浄土村は大師ゆかりの土地である。
・大文字の山自体も大師の修行の地の一つであった。
・「大」の字の筆跡は筆の名匠、弘法大師のものである。
・大文字山の斜面はかなり高低差があり、凸凹しているので、その地上から綺麗に見える大の字を設置するのは大師にしか出来なかったのではないか。

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起源②「足利義政説」
「室町時代中期に足利義政が始めた」という説。

理由は、
・大文字の送り火の正面は足利将軍家の旧室町幕府跡に向いている
・大文字山の麓には足利家ゆかりの銀閣寺がある。

現代でも人の目を惹き付ける大文字焼きを、朝廷が何も意見しないのは不思議に感じるところですが、その謎を解き明かすのは、なかなか大変そうですね。
ちなみに、京都の人の間ではこの弘法大師説が有力で、代々伝承されているそうですよ。

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五山の送り火の文字の意味は?

明治までは、十山(大文字、妙法、船形、左大文字、鳥居形、い、一、竿に鈴、蛇、長刀)ありましたが、明治政府の近代化(西洋化)政策により、送り火は、祇園祭とともに禁止令が出されました。
十年後に復活しましたが、資金難などで維持が難しく、太平洋戦争後は五山だけとなりました。

五山それぞれの由来ですが、

【右大文字】
麓に銀閣寺が建つ大文字(右大文字)は平安時代の弘法大師(空海)か、室町時代の足利義政、または江戸時代初期に近衛信尹(このえのぶただ)がはじめたという説があります。
【妙法】
麓に涌泉寺が建つ松ヶ崎妙法は鎌倉時代の僧日像(にちぞう)が「妙」、江戸時代の僧日良(にちりょう)が「法」を書いたと伝わっています。
【船形】
麓に西方寺が建つ船形は西方寺の開祖円仁が唐から無事に帰国したことにちなんだ説と精霊船を模した説などがあります。
【左大文字】
麓に金閣寺やわら天神が建つ左大文字はほかの送り火より時代が新しい江戸時代中期以降に始まったと考えられていす。『扶桑京華志』松生元敬著(寛文5年1665)には「大文字,北山村の西山に火を以て大の字を燃す。伝えるところ,これまた弘法の筆画なり,左大文字,京の町より北山をのぞんで左にあるところなり」と記されています。また大の字に一角加えて「天」の字にした時期もあったそうです。
【鳥居形】
北嵯峨の曼荼羅山の鳥居形は弘法大師(空海)が千体石仏を刻んだ開眼供養にちなんだ説と愛宕神社に開運する説があります。

余談ですが、京都市民の多くは「五山の送り火」を「大文字焼き」と言われることを嫌います。
江戸時代の人は比叡山の焼き討ちを思い浮かべるので嫌っていたそうです。五山送り火由来

まとめ

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いかがでしたか?
五山の送り火の由来や意味を知って、改めて見ると、また違った趣が味わえるかもしれませんね。
五山の送り火を見に行く場合は、こちらもチェック(五山の送り火の見学スポット)してみてくださいね。

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